東京地方裁判所 昭和41年(ヨ)268号 判決 1966年10月21日
東京都千代田区丸ノ内一丁目一番地
国際観光会館中日本棋院中央会館内
債権者 伊予本桃市
右訴訟代理人弁護士 岡田実五郎
同 山本耕幹
同 真壁英二
同 飯塚孝
同 川辺直泰
東京都港区芝高輪北町四三番の二
債務者 財団法人 日本棋院
右代表者理事 有光次郎
右訴訟代理人弁護士 青木一男
同 伊達利知
同 溝呂木商太郎
同 伊達昭
同 沢田三知夫
右当事者間の昭和四一年(ヨ)第二六八号仮処分申請事件について当裁判所は次のとおり判決する。
主文
債権者が、債務者に対し債務者所属の棋士たる地位を有することを仮に定める。
債権者のその余の申請を却下する。
訴訟費用は債務者の負担とする。
事実
債権者訴訟代理人は、「債権者が債務者に対し六段位を有する債務者所属の棋士たる地位を有することを仮に定める。」との判決を求め、その理由として、
一、債務者は、囲碁の普及発達を図り文化の向上に資することを目的として大正一四年八月二二日設立された財団法人であり、債権者は、昭和一〇年四月債務者の審査会の詮衡を経て当時の債務者総裁から初段位を有する債務者所属の棋士に任命され、昭和二九年一〇月二八日六段位を有するにいたった債務者所属の棋士である。
二、債権者が、債務者に対して有する債務者所属の棋士たる地位は、以下に述べるように債権者と債務者間において締結された債権者の利益をはかることをも目的とする準委任契約上の地位である。
(一)、債権者は、債務者の寄付行為所定の債務者の職員として棋道の研究、後進棋士の誘掖、教導に従事していることにもとづいて、債務者に対し次のような権利を有している。
(イ)、棋士手当を受ける権利。
債務者所属の棋士は、債務者から毎月その有する段位によって定められた一定額の金銭の給付すなわち棋士手当の支給を受けているのであり、債権者は六段位を有することによって毎月約金五、〇〇〇円の棋士手当の支給を受けていたのである。
(ロ)、昇段大手合に出場し、大手合手当を受ける権利。
債務者所属の棋士は、債務者より委託を受けた棋道の研究を行うとともに自らの棋力を向上させる場として、債務者が毎年度債務者所属の棋士を網羅して実施する昇段大手合に参加することによって、債務者より大手合手当として一定の金銭の支給を受ける。
(ハ)、引退金を請求する権利。
債務者所属の棋士は、昇段大手合および各種手合から引退する場合もしくは引退前に死亡した場合、年令、段位、債務者の事業に対する功績等を勘案したうえ決定される一定額の金銭の給付を受けるのであり、債権者は、すでに三〇年以上も債務者の所属棋士であったことにより、仮に引退する場合においては、少なくとも約金三〇〇、〇〇〇円の引退金の支給を受けるべき権利を有しているのである。
(ニ)、各種新聞手合に参加し得べき権利。
債務者所属の棋士は、債務者が新聞社等と契約のうえ企画する本因坊戦、名人戦等の各新聞社主催の棋戦(新聞手合と略称される。)に、その有する段位に応じて、当然に参加資格を与えられるのであり、その参加によって得る手合料を生活を支える重要な収入としているのである。
(ホ)、債務者が発行する免状交付料の割戻しを受ける権利。
債務者は、囲碁普及事業の一環として、囲碁愛好者の棋力に応じた棋力認定の免状を発行しているのであるが、債務者所属の棋士はその指導にかかる囲碁愛好者に免状を交付することを債務者に対して申請し、債務者がこれに応じて免状を発行した場合においては、債務者において免状受領者から徴収した免状交付料の二割に相当する金額を、債務者から交付を受ける慣行になっているところ、債権者は毎月平均六件の免状交付申請を行い、月額金五、〇〇〇円程度の割戻し料を支給されていたのである。
(二)、債務者所属の棋士は、右の債務者の職員たる地位とは別に、債務者の寄付行為で当然に債務者の評議員となるべきことが規定されていることにより、債務者の役員としてその運営に従事している。債務者の評議員会は、債務者の理事、監事、名誉総裁、総裁、最高顧問、名誉顧問、顧問、相談役および参与の各役員を選任する権限を有し、寄付行為の変更等債務者の運営に関する重要事項の議決権を有する債務者の最高の意思決定機関であるから、債務者所属の棋士が債務者の評議員として、債務者所属の棋士の生活に重要な利害関係を有する債務者の運営に参加することは、一面において債務者所属の棋士の権利ともいうべきものである。
(三)、債権者を含む債務者所属の棋士は、叙上のような債務者に対する権利を有するほか、債務者の所属棋士であることによって、国内的にも、国際的にも専門棋士に相応する社会的な地位を享受し、社会的な名声をも得ているものである。その結果、一般の囲碁愛好者からも囲碁の指導を望まれ、その指導料を自らの収入としてその生活をたてることが可能なのであって、債権者も現に桃源会と称する囲碁クラブを主宰し約六〇人に囲碁を指導し、指導料を得ている。
また、各種新聞、週刊誌および囲碁雑誌等に囲碁に関する原稿を執筆して原稿料を得ることも、債務者所属の棋士たる社会的地位を有することによってはじめて可能である。
(四)、以上を要するに、債権者が債務者所属の棋士たることにより債権者と債務者間に存在する法律関係は、債権者において債務者から棋道の研究、後進の誘掖、教導にあたるべき事務ならびに評議員として債務者の運営に携わる事務の委託を受けることにもとづいて発生する準委任関係であるというべきものであり、仮に債務者の評議員たる地位が債務者の所属棋士たる地位と法律上区別されるものと解されるとしても、少なくとも前述のように棋道の研究、後進の誘掖、教導に関する事務の処理を委託されていることにもとづいて発生する準委任関係というべきものである。
しかも、債権者は、債務者から委託を受けた右の事務の処理に関して、債務者に対し上述のような諸権利を有し、また利益を享受するにいたっているのであるから、右の準委任関係が債権者の利益をはかることをも目的とした有償の関係であることは疑いを容れる余地がない。
三、ところが、債務者は、昭和四〇年一二月三日、その評議員会の議決を経て債権者を債務者所属の棋士から除名することに決定したとして、同月四日付の書留内容証明郵便をもって債権者に除名の通知をし、債権者はその頃右郵便の送達を受けた。
債務者が右の通知において債権者を除名する理由として述べているところは、(一)債権者が、債務者の評議員会の決議ならびに理事会の指令に従わず、債務者の統制を乱したこと、(二)日本棋院中央会館を債務者とは別個の団体と主張して債務者を裁判に訴えたこと、というのである。
四、しかし、債務者のした除名は次の理由により無効である。
(一)、債務者のした除名は寄付行為に違反する。すなわち、債務者の寄付行為中には、一定の棋力を有するものについて審査会の選衡を経たうえ、債務者所属の棋士に任命し得る旨の債務者所属の棋士の資格取得に関する規定はあるが、債務者所属の棋士を除名し得る旨の規定はない。
債務者は、もともと囲碁の普及発達をはかり文化の向上に資するために、普及事業の中心となるべき債務者所属の棋士の生活の確保と安定をはかることを目的として設立されたものであるから、一旦、債務者所属の棋士に任命した者については、終身にわたって法律上または経済上の利益を与えることを債務者自身の義務とし、敢えて債務者所属の棋士を除名する規定を設けなかったものである。したがって、債務者がその寄付行為において禁じていることについて、寄付行為の改正変更に関する法定の手続を踏むことなく、たんに債務者の理事会および評議員会においてなされた債権者の除名は効力を生ずるに由ないものである。
(二)、たとえ、右のような寄付行為の規定にかかわらず、債務者がその所属の棋士を除名し得る権限を有するものと認められるとしても、債権者の除名は正当な手続を履践していないために無効である。
(イ)、債務者がその所属の棋士を除名するためには、その最高意思決定機関である評議員会の議決を経ることを要するものであるところ、債権者の除名については適式な評議員会が開催されていない。すなわち、債務者は、その設立時においては、債務者の所属棋士を含まない債務者の事業を賛助する一般の囲碁愛好者の中から債務者総裁の委嘱によって選出される理事の構成する理事会が運営機関となっていた純然たる財団法人であったけれども、太平洋戦争による戦災によってその基本財産の大部分、ことに本部会館を焼失したことにより、終戦後は財団としての実体を維持することが困難になったことに加えて、債務者を後援する者も減少したため、債務者は昭和二三年四月一日寄付行為を改正し、債務者の所属棋士の手合料収入を主な財源としてその運営を賄い、かつその運営も債務者の所属棋士の生活の確保を目的として債務者の所属棋士が自主的に行う構想のもとに、債務者の所属棋士をすべて債務者の評議員とし、その構成にかかる評議員会に前述のような債務者の役員の選任権を含む広範な権限を与えることにしたのであるから、現在では、債務者は財団というよりもむしろ債務者所属の棋士を中心とする社団的な団体に変化してしまっているのである。
したがって、債務者所属の棋士は、社団法人における社員に比すべき地位にあるというべきであるから、債務者所属の棋士が評議員たる地位にもとづいて構成する評議員会が、債務者の最高意思決定機関であることはいうまでもないことであり、まして、債務者所属の棋士を除名する如き重要事項の議決に際しては、債務者の全評議員が参加して開催される評議員会において過半数の賛成を必要とするものというべきものである。ところが、債権者を除名する旨の議決をした昭和四〇年一二月三日開催にかかる債務者の評議員会は、債務者の評議員約三〇〇名のうち、東京に在住する評議員一三二名を招集したのみで開催された会合であって、東京以外に在住する評議員には招集通知すらなされていないのであるから、到底正当な手続を経て開催された評議員会ということはできないのであり、このような会合によって債権者の除名を議決しても何の効力も生じないというべきである。
(ロ)、仮に債務者の評議員会が債務者の最高意思決定機関でなく、債務者の理事会の諮問機関に過ぎないものと解せられるべきものとしても、債務者が前述のように社団的性格を有することにかんがみ、債務者の理事会の議決は、その評議員会の議決を経ることを効力発生の要件としているものと解すべきものであるところ、債権者を除名した理事会の議決については、前述のとおり、正当な招集手続を経た評議員会の議決を経ていないものであるから、債務者の理事会のした債権者の除名の議決は効力を生じないものである。
(三)、仮に、債務者のした債権者の除名が、手続的に有効であると認められるとしても、右の除名は、債権者、債務者間の準委任関係を解除すべき正当な事由があってなされたものではないから無効である。
すなわち、債権者が、債務者の評議員会の議決および理事会の指令に従わず、債務者が除名理由としているような裁判上の抗争を行っているのは、以下にのべるとおり、日本棋院中央会館の常任運営委員として同会館の運営に参与している地位を保全する目的にでた正当な行為なのである。
(イ)、債務者は、昭和二九年五月頃、終戦後における国内の囲碁の普及に刺激され、東京駅八重州口前に国際観光会館が新築されたことを機会に同建物の五階の約一〇〇坪(三三〇、五七平方メートル)を借受けて日本棋院中央会館なる名義で囲碁ホールを開設することを計画し、債務者の評議員会および債務者所属の棋士の親睦団体である棋士会で検討したのであるが、囲碁ホールは、商法にいわゆる客の来集を目的とする場屋の経営であって、公益法人たる債務者がこれを経営することは不適当であり、また事業の才に乏しい債務者所属の棋士が当時年間約二、七〇〇万円を要することが予定された囲碁ホールの経営にあたる場合においては失敗することが多分に予想されたことでもあり、まして過去において同種事業に着手して失敗した経験を有したことにもかんがみ、万一経営が失敗したとしても、その負担を債務者に及ぼし、ひいて債務者所属の棋士の経済的生活を脅かすに至る事態となることを未然に防止するために、債務者とは別個の人格を有する団体を設立してその経営にあたらしめることにした。かくして、昭和二九年五月三一日、丸ノ内工業倶楽部において債務者所属の棋士、政界、財界の知名人三〇〇余名が参集し、全員が委員となり、委員長一名、実行委員四八名、顧問六名を互選して申請外日本棋院中央会館設立運営委員会が設置された。右申請外設立運営委員会はその後委員数五二五名、実行委員九六名を数えるにいたったが、同年一一月二三日日本棋院中央会館の開設披露宴を行い、囲碁対局場およびサロンとしての同会館開設の目的を達成したことにより、同年一二月三日、その名称を日本棋院中央会館運営委員会と改称し、爾来、同会館の運営を行って来たのである。
(ロ)、このようにして設立された申請外日本棋院中央会館設立運営委員会(改称後は日本棋院中央会館運営委員会)は、当初から、債務者の支持団体として囲碁の普及発達をはかり文化の向上に資するために囲碁ホール等の経営および出版事業を営むことを目的とする事業主体であって、債務者とは別個の人格を有する民法上の組合に準ずる性格を有する人格のない社団であるが、以下に述べる事実もこのことを裏付けるものである。
すなわち、申請外日本棋院中央会館設立運営委員会の委員五二五名(設立当初は三〇〇余名。)は、設立に際して労務を提供した債務者の理事および債務者所属の棋士の各一部、社会的、経済的信用を提供した政界、財界人の一部をのぞき、すべて寄付金名義の出資をしており、債務者も補助金名義で金四〇〇万円を申請外日本棋院中央会館設立運営委員会に交付しているほか、同委員会は自己名義において第三者から日本棋院中央会館開設の基金を借り受けてもいるのである。
また申請外日本棋院中央会館設立運営委員会は、申請外株式会社国際観光会館から、同年一〇月一日、同会館五階の九九坪二合(三二七、九三平方メートル)を、ついで昭和三〇年一月一六日、同階の一六坪四合(五四、二一平方メートル)を、いずれも債務者を保証人として日本棋院中央会館設立運営委員会委員長申請外津島寿一の名義で賃借するに際し、申請外日本棋院設立運営委員会名義で同会館に保証金を納入したほか、同委員会の名および計算において造作工事、職員の雇入れを行って囲碁ホールの開設に必要な人的、物的設備を整えたうえ、前述のように開設披露宴を行ったのちは、その名において囲碁ホールの経営とこれに付随した囲碁の普及事業を行ってきたのである。
(ハ)、債権者は、申請外日本棋院中央会館設立運営委員会が結成された当時の発起人の一人であって、結成後は実行委員に選出されて日本棋院中央会館の設立運動に重要な貢献をなしたのであるが、昭和二九年一二月三日申請外日本棋院中央会館設立運営委員会が、申請外日本棋院中央会館運営委員会と改称された際にも運営委員となり、同時に、申請外岩本薫、同桑原宗久とともに、同委員会の業務執行権を有する常任運営委員に選任された。
ところが、昭和三〇年一二月一三日に、日本棋院中央会館の事業経営の収支が相償わずそのために生じた赤字の解消方法に関する経営方針につき常任運営委員間に意見の対立をきたしたことを理由として、債権者を除く両名が常任運営委員を辞任するにいたったので、その後任として申請外宮下秀洋、同村島誼紀が選任されたのであるけれども、一年足らずで右の両名も職責の遂行に対する自信を失なって辞任するにいたったので、爾後、債権者がただ一人で常任運営委員として日本棋院中央会館の経営の業務の執行にあたって来たのである。
(ニ)、しかるに、債務者は、申請外日本棋院中央会館運営委員会が、債務者とは別個独立の団体であることを否定し、日本棋院中央会館が債務者に所属する下部機構の一つに過ぎないとの理由にもとづいて、昭和四〇年一月頃開催したその理事会ならびに同年三月一九日に開催したその評議員会の議決を経て昭和三〇年一二月一三日債務者の制定にかかる「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)を廃止し、新たに右規定の改正にかかる「日本棋院中央会館規定」(乙第八号証)を制定し、昭和四〇年四月一日から改正にかかる規定を実施することに決定した。しかも債務者は、改正にかかる「日本棋院中央会館規定」(乙第八号証)においては、改正前の「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)に定めてある日本棋院中央会館の運営委員の地位が規定上廃止されたことにより、債権者が有する日本棋院中央会館の運営に関する業務の執行権も当然消滅したとの理由にもとづいて、債権者に対し、同年三月三一日限り、日本棋院中央会館の運営に関する事務を債務者に引き継いだうえ、その施設から退去することを求めてきたのである。
(ホ)、しかし前掲各「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証、同第八号証)は、いずれもその制定において適法な評議員会の議決を経ておらず無効なものであるが、この点はしばらく措くとしても、右の規定を改正したとする債務者の理事会ならびに評議員会の議決が、債務者と別個の団体である申請外日本棋院中央会館運営委員会の委任を受けて日本棋院中央会館の運営に従事している債権者を拘束し得るものでないことは明らかである。したがって債権者は、日本棋院中央会館の常任運営委員たる職責にもとづいて、同会館運営の事務の引継ならびに同会館からの退去を求める債務者の不当な要求に対しその地位を保全すべく同年四月一日東京地方裁判所に対して仮処分を申請し(同裁判所昭和四〇年(ヨ)第二、八四四号事件)、同月八日、債務者に対し、債権者が日本棋院中央会館運営委員会の指揮のもとに日本棋院中央会館の管理、運営を行うことを妨害することを禁止する旨の仮処分決定を得たのである。
このような債権者の仮処分申請は、債務者の不当な要求に対処するために止むを得ずなされた正当な権利行使の手段であるから、たとえ債権者が債務者の所属棋士としてその理事会および評議員会の議決に従わなかったとしても、そのことにより不利益な待遇を受けるべきいわれはない。
(ヘ)、以上を要するに、債権者は、債務者所属の棋士とは債務者との法律関係を異にする日本棋院中央会館の運営常任委員たる地位にもとづいて、その地位を保全し、かつ、日本棋院中央会館が債務者の下部機構であるか否かについて裁判上の解決を求めるために債務者と抗争しているのであって、債務者所属の棋士たる地位にもとづいて債務者と抗争しているのではない。債権者は、債務者所属の棋士としては、日本棋院中央会館の運営により囲碁の普及発達に尽力し、また棋道の研究、後進の誘掖、教導に重大な貢献をしてきたことはあっても、債務者の目的と相容れない行動をとったり、債務者の所属の棋士たる資格を失なうに足るほどの非行を行なった事実は毫末もないのである。したがって、債務者のした債権者の除名は、債権者の債務者所属の棋士たる地位を失わしめるに足る正当な事由にもとづいてなされたものでないことは明らかであるから、その除名は何ら効力を生ずる余地がない。
(四)、仮に以上の主張のすべてが理由がないとしても、債務者がした債権者の除名は、債務者において権利を濫用するものである。すなわち、昭和四〇年一二月三日に開催された債務者の評議員会は、出席人員一一〇名(但し委任状を交付したことによって出席したとみなさるべきもの一四名を含む。)のうち、債権者の除名に賛成する者五七名、反対する者二九名、白票一名、棄権九名によって債権者を除名する議案を採択したのであるけれども、右の評議員会の開催に先立って、同年八月一三日、債務者所属の棋士のほぼ全員の参加のもとに開催された棋士総会において、債務者は、右総会に出席した債務者所属の棋士に対し、あらかじめ債務者所属の棋士全員に配布した文書(甲第一三号証)にもとづいて、前掲の日本棋院中央会館をめぐる紛争について債権者に同調する者に対しては理由の如何を問わず除名の対象とする旨の詳細な説明を行い、債権者が、債務者の下部機構の一つである日本棋院中央会館を不当に私するものである旨の虚構の事実を強弁し、評議員会において債権者の除名に対する賛成者を得るための工作をしたほか、その後においても、債務者所属の棋士に個別的に面接し、或いは電話を用いて評議員会において債権者の除名に関する議案に賛成するように強要し、もってその慫慂を受けた債務者所属の棋士をして前記評議員会で債権者を除名する旨の議案に賛成せざるを余儀なくさせたものであるから、債務者のした債権者の除名は、不当な多数派工作のもとになされたものとして権利の濫用にあたるというべきである。
五、(一)、債権者は、債務者所属の棋士から除名されたことによって、棋士手当、免状交付料の割戻金等の収入を得られなくなり、また昇段大手合、新聞手合等にも出場資格を認められないことによってそれらの手合料を受けることができなくなった。しかも、債務者が、債務者所属の棋士全員および多数の囲碁愛好者に、債権者を除名した旨を書面で通知するとともに、債務者が発行している囲碁普及雑誌「棋道」および「囲碁クラブ」にも同旨の広告をしたことにより、債権者の名誉および囲碁愛好者に対する信用は著るしく傷つけられるにいたった結果、債権者は、囲碁愛好者に囲碁の指導をすることによってその指導料を得ることも妨げられており、この状態を放置すれば債権者の生活は重大な脅威を受ける結果となる。
(二)、また、債権者が東京地方裁判所昭和四〇年(ヨ)第二八四四号事件で得た前掲仮処分決定に対しては、債務者から異議申立がなされたことにより、現在同裁判所に右仮処分に対する異議訴訟が係属中であるところ、債務者は、債権者をその所属の棋士から除名したことを皮切りとして、債務者所属の棋士中、右訴訟において債権者側の証人として債務者に不利な証言をした者或いは債権者提出にかかる上申書に署名した者を債務者所属の棋士から除名する旨の意向を明らかにしており、これに該当する債務者所属の棋士に不安と動揺を与える原因となっている。このような事態において債権者の除名が放置されるときは、右の訴訟において証人に出廷すべき債務者所属の棋士も真実の証言をなし難くなり、ひいては、債権者において右訴訟において公正な裁判を受けることも期し難く、将来において回復し難い損害を蒙むる結果となりかねない。
六、よって、債権者は、債務者に対し、債権者が債権者、債務者間の準委任関係にもとづく六段位を有する債務者所属の棋士たる地位を有することの確認を求める本案訴訟を提起すべくその準備中であるが、右の本案訴訟における勝訴判決の確定をまっていては債権者が回復し難い損害を蒙ることになるので本件仮処分申請に及んだ。
と述べ、
債務者訴訟代理人は、申請却下の判決を求め、答弁として、
一、債務者が囲碁の普及発達を通じて文化の向上に資する目的で設立された財団法人であり、債権者がその主張するようないきさつにより六段位を有する債務者所属の棋士であったことは認める。
二、債務者の寄付行為中に、債務者所属の棋士を債務者の職員として定める旨の規定および債務者所属の棋士をすべて債務者の役員たる評議員とする旨の規定が存すること、債務者が債務者所属の棋士に債務者が主張するような棋士手当、大手合手当および免状交付料の割戻金を交付していること、その主張のような引退金を支給していること、債務者所属の棋士が新聞棋戦に参加し手合料を受け、また囲碁愛好者に囲碁の指導料を得ていることは認めるが、債務者と債務者所属の棋士間の法律関係が、債権者の主張するような有償の準委任関係であることは否認する。
(一)、債務者が、その審査会の議を経て、棋家(囲碁の対局または指導により収入を得ている者を略称する。)を、債務者所属の棋士に任命する行為は、さらに、当該棋士に債務者が定める基準に従って正棋士、準棋士、地方棋士の別による資格を与えることを予定し、当該棋士が、債務者の設立目的に協力する棋家であることを公認する行為であって、法律関係の発生を目的とする行為ではない。債務者の寄付行為に定める債務者所属の棋士の業務(寄付行為第二五条)なるものは、債務者所属の棋士が債務者の設立目的に協力し、債務者を援助するうえで果すべき役割を記載したのにとどまり、同条に所定する棋道の研究、後進の誘掖、教導に関する事務の処理を債務者所属の棋士に委託し、これを処理することを義務づけているものと解されるべきではない。
債務者が、債権者主張のような棋士手当を支給しているのは、債務者所属の棋士中、正棋士の資格を有するものに、その品位の向上と生活の確保に資するべく恩恵的に支給しているに過ぎず、債務者所属の棋士たる地位に対する報酬として支給しているものではない。
また債務者所属の棋士が受けるべき大手合手当、新聞手合料は、当該棋士が、手合(囲碁の対局)を行ったことに対する報酬であり、債務者所属の棋士たる地位に対する報酬ではないのである。
以上を要するに、債権者が債務者所属の棋士たることによっては、いまだ債権者、債務者間に何ら法律関係が発生しているものではないから、債務者が債権者を債務者所属の棋士から除名することによって、債務者の設立目的に協力する棋家であることを公認した行為を撤回することは、債務者の自由になしうることというべきである。
(二)、右の事実が認められないで、債務者所属の棋士と債務者との間に何らかの法律関係が存在するものと解せられるべきものとしても、上述した事情により、その法律関係は、債務者がその所属棋士に対して債務者の設立目的である囲碁の普及発達に協力ないし援助することを委任したにとどまる委任類似の法律関係であり、しかも無償のものであるから、債務者は何時にてもその所属棋士を除名することにより右の法律関係を解除することを得る性質のものというべきものである。
三、債務者が、債権者が主張するような理由にもとづいて、債権者を債務者所属の棋士から除名したことは認める。
(一)、債務者は、東京都千代田区丸ノ内一丁目一番地国際観光会館五階のうち一一一坪六合(三六八・九二平方メートル)において、債務者に直属する下部機構の一つとして、債権者が主張する日本棋院中央会館を開設し、昭和三〇年一二月一三日以来「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)にもとづいてその運営を行い、債務者が右規定による同会館の運営実行委員を委嘱した債権者にその実務を担当させていたところ、債権者には次第に公私混淆の弊が生じて、その私生活は超一流の棋家をしのぎ、債務者所属の棋士の一部を輩下として日本棋院中央会館を私物化する振舞が目立つようになった。これに加えて、債権者は、昭和三九年秋頃、債務者の理事会に無断で第二回インターナショナル・ゴ・トーナメント大会を強行し、しかもその開催にあたって日本棋院中央会館運営委員長申請外津島寿一をさしおいてほしいままに「日本棋院中央会館運営委員長福田赳夫」なる名義の案内状を配付し、債務者をしてその善後措置を講じざるを得ない苦境に陥入れた。そこで、債務者は前掲「日本棋院中央会館規定」を廃止して、爾後同会館の運営は、債務者の理事長をもってあてる同会館館長を運営の一切の責任者とし、債務者の理事の中より委嘱する副館長をもってこれを補佐し、なお同会館の管理運営に関する事務は、債務者の理事会中に設置する日本棋院中央会館運営担当委員会に担当させる旨を規定する「日本棋院中央会館規定」(乙第八号証)を制定することにより、債権者の実行委員たる地位に関する規定上の根拠を消滅させ、債権者をして日本棋院中央会館の運営に関する実務を担当する地位から自動的に退陣させようとする考えで、昭和四〇年三月一九日開催した債務者の評議員会で、右の「日本棋院中央会館規定」の改正に関する議案を賛成多数で採択したうえ、改正にかかる規定(乙第八号証)を同年四月一日から実施することと定めたのである。そこで債務者は、その理事会において副館長に債務者の副理事長申請外加藤和根を、運営担当委員に債務者の棋士理事(債務者所属の棋士中債務者の理事に選任されているもの)全員および申請外藤沢朋斉、同瀬越憲作を選任したうえ、債権者に対して日本棋院中央会館の運営に関する事務の引継を求めたところ、債権者はこれに応ぜず、その主張するような仮処分決定を得るにいたったのである。
債権者の右のような行為が、債権者自身評議員として出席していた前記評議員会の議決を無視し、右議決にもとづく債務者理事会の指令に従わず、債務者の秩序を乱したものであることは明らかであるのみならず、債務者の下部機構に過ぎない日本棋院中央会館を債務者とは別個独立の人格を有する団体であるという主張を掲げて債務者と抗争することは、債務者の設立目的に協力することを本旨とする債務者所属の棋士たる地位と相容れないものであるから、債権者をして債務者所属の棋士たる地位にとどめる理由は全く消滅したのである。
(二)、右の事由は、債権者と債務者間の法律関係が債権者の主張する有償の準委任関係であるとしても、右の法律関係を存続し難い著るしい信頼関係の破壊があった場合に該当するから、債務者が何等の催告を要せずに右の法律関係の解除すなわち除名をなし得る場合にあたることもちろんである。
(三)、よって、債務者は、昭和四〇年一一月二九日開催されたその理事会において、債権者が主張する理由にもとずいて、同年一二月三日に開催する予定であった評議員会の議決を経たうえ債権者を除名することに決定し、同年一二月三日、その評議員会の議決を経たので、債権者が主張するように債権者に対する除名の通知をしたのであり、右通知が債権者に到達することにより、債権者は債務者所属の棋士たる地位を失なったのである。
四、(一)、債権者が、債務者のした除名が無効であるとして主張する事実のうち、債務者の寄付行為中に債務者所属の棋士を除名し得る旨の規定がないこと、債務者が、昭和二三年四月一日に債権者主張のような内容において寄付行為を改正していること、昭和四〇年一二月三日開催した評議員会が東京在住の評議員を招集して開かれた評議員会であること、日本棋院中央会館の開設に際し債権者が主張するように日本棋院中央会館設立委員会が設置され、その第一回委員会が、昭和二九年五月三一日丸ノ内工業倶楽部で開催されたのち債権者が主張するような委員数を擁するにいたったこと、同年一〇月一日日本棋院中央会館設立運営委員会委員長申請外津島寿一の名において株式会社国際観光会館との間に債権者が主張するような貸室賃貸借契約を締結し、債務者においてその保証人となっていること、昭和二九年一一月二三日日本棋院中央会館の開館披露式典を同会館で行い、以来同会館を囲碁対局場、サロンとして経営してきたことは認めるが、その余の債権者の主張は争う。
(二)、債務者の評議員会は、債務者の執行機関である理事会において寄付行為に定めた事項を諮問するに過ぎない機関であって、債権者が主張するように債務者の最高意思決定機関ないしは、その議決が債務者理事会の議決の効力発生要件とみなさるべき権限を有するような機関ではない。債務者は、債権者を除名するにあたり、慎重を期するためにその評議員会を開催し、その意を徴したもので、昭和四〇年一二月三日開催にかかる東京在住の評議員を招集した評議員会(評議員数一三二名)のみならず、債務者の中部総本部(評議員数二三名)、関西総本部(評議員数三七名)においても、それぞれ所属の評議員を招集して評議員会を開催し、債権者の除名を承認する議決をしている。したがって、債務者のした債権者の除名に債権者が主張するような手続上の瑕疵はない。
(三)、日本棋院中央会館が、債務者とは別個独立の人格を有する団体によって運営されているとする債権者の主張は全く事実に反する。
(イ)、日本棋院中央会館は、債務者所属の棋士である申請外瀬越憲作、同岩本薫の建案にもとづき、当時の債務者の総裁申請外津島寿一の賛成を得て、その開設を債務者理事会において承認する議決をしたことにより、当初から債務者の理事会が、開設資金の調達ないし開設後の運営に関する方針の立案およびその実施にあたってきたものである。当時の債務者総裁申請外津島寿一を委員長とする日本棋院中央会館設立運営委員会が設置されたことも、中央会館の開設事業が一般の囲碁愛好者から広く寄付金を募集するのでなければ実現不可能であることにかんがみ、政界、財界の有力者に委員を委嘱し、債務者の理事長はじめ全役員も委員となるような委員会を作ることが、寄付金の募集に便利であるとの意図によったものであり、その結果一般囲碁愛好者の支持ないし賛同を得て漸く金三、〇〇〇万円以上の開設資金を得ることができたのである。昭和二九年一一月二三日日本棋院中央会館が開設されるにいたり、右設立運営委員会の目的が消滅するにいたったので、債務者は同年一二月三日設立運営委員会を解散し、新たに同会館の運営、経理その他一切の事務を担当させるべき日本棋院中央会館運営委員会を設置し、債務者の理事会の議決により、その委員長に申請外津島寿一を、運営委員に申請外永野護ほか二六名を選任し、あわせて同会館の運営の実務を担当する同会館長に申請外岩本薫を、幹事に申請外桑原宗久および債権者を選任した。右の運営委員会も、その活動の準則となった「日本棋院中央会館運営委員会規定」(乙第六号証)の第二条に債務者の一機構として日本棋院中央会館運営委員会を置く旨明記されていることからも明らかなように債務者と人格を異にする団体ではなかったのである。
しかも、債務者は、昭和三〇年一一月頃にいたって日本棋院中央会館の経営が振わず、申請外岩本薫、同桑原宗久も辞任するにいたったので、理事会において運営委員会のあり方や同会館の赤字解消の方策等を検討した結果、前記運営委員会規定(乙第六号証)を廃止し、新たに運営委員会を単なる諮問機関とし、同会館の運営の権限を債務者の理事長をもって任ずる館長に帰属させ、債務者の理事会の決議によって債務者所属の棋士中から委嘱する実行委員をして運営に参与させることとする日本棋院中央会館規定(乙第七号証)を制定し、運営委員長に申請外津島寿一を、館長に当時の債務者の理事長申請外三好英之を、実行委員として申請外宮下秀洋、同村島誼紀および債権者を選任した。したがって、その後一年を経ずして申請外宮下秀洋、同村島誼紀がその職を辞したため、債権者が事実上単独で同会館の運営に関する事務を担当していたとしても、同会館の運営に関する最終的な責任が債務者の理事会に帰属していたものであることは明らかなのである。このことは、昭和三一年九月頃、債権者が一部の支持者とともに「中央会館運営委員会規定」(乙第六号証)の改正案(甲第三〇号証の六)を債務者の理事会に提出した際に、債務者の理事会が、右改正案が日本棋院中央会館の運営に関する権限を専ら運営委員会に帰属させる結果となっていることに反対して、特に債権者との間において、同会館の運営は債務者の理事会が主体となって行うことを確認し、前掲改正案を採択するにいたらなかった事情があったことにてらしても明らかである。
なお、債権者は、申請外株式会社国際観光会館との貸室賃貸借契約が日本棋院中央会館設立運営委員会委員長申請外津島寿一名義になっており債務者がその保証人となっていることを目して、右設立運営委員会が債務者と別個の人格を有する証拠であるというけれども、このようなことは、債務者が日本棋院中央会館の会計を債務者と別扱いすなわち独立採算制にしたことによる便宜上の措置であり、このような外観にかかわらず、日本棋院中央会館の経営に関する予算、決算は債務者の理事会および評議員会の承認を要する事項と定められ、債務者は、毎月同会館の収支に関する報告を得ていたうえ、債務者の名において主務官庁に対し日本棋院中央会館の事業報告を行い、また右事業の納税義務者となっていたのである。
(ロ)、債権者は、前述のように昭和三一年秋頃から、債務者所属の棋士中ただひとり日本棋院中央会館の運営の実施に携っていたものであるけれども、債権者自身において債務者の理事会に出席し、同会館の運営に関する事項を報告し続けてきたことにてらして、債権者が、債務者の理事会から同会館の運営の実務を担当することの委嘱を受けた実行委員に過ぎず、同会館が債務者の下部機構として、債務者の責任において運営されているものであることを十分に知悉していたものである。しかも債権者は、日本棋院中央会館の常任委員であることにより、昇段大手合に出場しないのにもかかわらず、一般の債務者所属の棋士と同額の手当を支給され、また実行委員手当も受けるなど、債務者から特段の処遇を得ていたのにもかかわらず、その任久しきにわたるや前述のような独断専横な振舞におよぶにいたったので、債務者は数次にわたるその理事会において慎重に討議の結果、前述のように「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)を廃止し、あわせて新たに制定した「日本棋院中央会館規定」(乙第八号証)を実施すべく、日本棋院中央会館の事務の引継を要求したところ、全く突然に同会館が債務者とは別個の団体であると主張して、債務者の理事会の指令を無視するにいたったのであるから、このような主張が単なる詭弁に過ぎないことは、債権者の主張する仮処分異議訴訟の判決を得るまでもなく明らかなことである。
(ハ)、しかも債権者は、その主張にかかる仮処分申請事件において当初、日本棋院中央会館それ自体が債務者と別個の人格を有する団体であり、日本棋院中央会館運営委員会がその運営機関であると主張してその主張に即した仮処分決定を得ておりながら、右仮処分に対する異議訴訟の最終口頭弁論期日である昭和四〇年一二月二一日にいたり、突如として従前単なる運営機関に過ぎないと主張していた右の運営委員会および解散前の日本棋院中央会館設立運営委員会をもって、本件における主張と同様に、債権者とは別個独立の団体であると主張するにいたったのであって、その推移にてらしても債権者の主張には相互に矛盾し牴触する点がある。このような点からしても、債権者の主張にかかる、債務者とは別個の人格を有すると称する団体の実体が虚構のものであり、債権者のした右の仮処分申請が正当な権利の行使にあたらないことは明らかであるというべきである。
五、のみならず、本件仮処分申請には保全の必要性がない。
すなわち、債権者は、債務者所属の棋士を除名されることによって従来債務者より得ていた収入を失い、経済生活上の脅威を受けると主張するけれども、そのような収入は、債権者が日本棋院中央会館の運営を壟断して得た利益からすれば取るに足らない金額である。一方債務者は、既に債権者が仮処分決定を得た(前掲東京地方裁判所昭和四〇年(ヨ)第二八四四号事件。)ことにより、債務者の秩序が破壊され、債務者所属の棋士のみならず一般の囲碁愛好者に対しても不安と動揺を与えている現状にあるから、本件申請が認容されるならば、債務者の社会的信用は全く害なわれ、債務者は崩壊寸前の窮境に陥入ることとなる。
六、以上を要するに、債権者の本件仮処分申請は、被保全権利も保全の必要性もないものであるから却下さるべきものである。
と述べた。
疎明≪省略≫
理由
一、債務者が、囲碁の普及発達を図り、文化の向上に資することを目的として大正一四年八月二二日設立された財団法人であり、債権者が、昭和一〇年四月債務者の審査会の詮衡を経て当時の債務者総裁から任命を受けた債務者所属の棋士であって、昭和二九年一〇月二八日六段位を有するにいたっていたことは当事者間に争いがない。
二、そこで、まず債権者が六段位を有する債務者所属の棋士であることにより、債権者、債務者間にどのような法律関係が存在したかを調べてみる。
(一)、≪証拠省略≫によると以下のような事実が認められる。
すなわち、債務者は、申請外亡大倉喜七郎ら囲碁愛好者の発意により、当時本因坊派、方円社、禅聖会等の諸派に分立していた棋家を統合し、棋家の経済生活の安定をはかるとともに、各派においてまちまちであった囲碁の段位の基準を統一し、もって一層の囲碁の普及をはかるべきことを期してその設立をみたものであるところ、その設立当時の寄付行為(甲第六号証の一)においては、設立者の寄付した金一〇万円と将来有志者がなすべき寄付金およびその他の収入を財産として、囲碁会館の建設、棋家の後援ならびに養成、棋道に関する図書および雑誌の刊行、棋道に関する図書の整備等の事業を行うことを定めるとともに、棋家をして棋道の研究に専念させる目的で、債務者の運営は、棋家を除く囲碁愛好者のなかで債務者の事業を賛助する者のうちから債務者の総裁が委嘱する理事によって構成される債務者の理事会が行うこととし、棋家は、五段以上の棋家をもって組織する債務者の審査会の詮衡を経たうえ理事会の議決を経由した場合に、債務者の総裁においてこれを債務者の職員たる債務者所属の棋士に任命し、棋道の研究、後進の誘掖、教導に努めさせることと定めていた。そして債務者は、棋家の経済生活の安定と段位の統一をはかる設立当初の目的を実現するために、債務者所属の棋士となった棋家に対しては、毎月その段位を基準として定める棋士手当を支給するものとし、なお昭和二年から債務者所属の棋士を網羅する昇段大手合を実施することにより、棋士に対して広く先輩、同僚の棋士と対局する機会を与えて棋道の研究にあたらしめるとともに、右の大手合で所定の勝点をおさめた者に限り、審査会の議を経て昇段させることと定めた。したがって、その後は、昇段大手合に対する出場資格を有することが、債務者所属の棋士の任命の要件となり、大手合出場資格を得べき予選手合において所定の勝点をあげ、審査会の詮衡を経た者に対してのみ、債務者所属の棋士たる任命がなされるようになってきた。
ところが、債務者は、太平洋戦争中に戦災によって会館その他の基本財産の多くを焼失し、また終戦後の混乱によって、政、財界の有力者の後援を期待することができなくなったので、債務者所属の棋士が中心となって、債務者所属の棋士の生活の安定を確保することを専らの目的とした債務者の運営を行うべく、昭和二三年四月一日寄付行為を改正し(この点は当事者間に争いがない。)、債務者所属の棋士はすべて債務者の役員たる評議員となるものとしたほか、評議員会に対し、債務者の理事、監事等の役員の選任権を与えるとともに、年令二五才、三段以上の債務者所属の棋士には理事の被選任資格をも与え、理事として選任したうえ理事会あるいは常務理事会において債務者の運営に参画させることとした。しかし右の寄付行為の改正に際しても、債務者所属の棋士を債務者の職員とする規定は、総裁が任命権者となっていたことを廃して審査会の議を経た者をもってただちに債務者所属の棋士とする旨に改めたほかは従前のままに踏襲され、債務者所属の棋士に対する債務者の待遇も従前どおり継承された。なお、右の改正にかかる寄付行為(甲第六号証の二)は、昭和三五年九月に再び改正されて現行の寄付行為(甲第六号証の三)になったのであるが、右の再改正においても、債務者所属の棋士の地位に関して昭和二三年四月一日に前示のように改正した諸点はそのまま存続され、債務者所属の棋士は、現行の寄付行為上、一方において債務者の職員として債務者の規定に従い棋道の研究、後進の誘掖、教導に努めるべきものとされ(寄付行為第二五条)他方においては、当然債務者の役員たる評議員となるものと規定されている。(このような規定があることは当事者間に争いがない。)また債務者所属の棋士の経済生活の安定および段位の統一をはかるためにとられた前示のような債務者の運営方針は、右の寄付行為の改正後もそのまま維持され、債務者は、現在その所属の棋士に段位、勤続年数等を基礎として算定する棋士手当を支給し、昇段大手合に出場した場合においては大手合手当を支給し、その所属の棋士が昇段大手合から引退した場合もしくは死亡した場合は一時金を支給している(このような諸手当が支給されていることは当事者間に争いがない。)ものである。
おおよそ以上の事実が認められるのであり、前掲各証拠中右認定に反する部分は採用できない。
(二)、叙上認定にかかる債務者の設立および運営の沿革をかれこれ考えあわせると、債務者が、棋家を債務者所属の棋士に任命する行為は、大手合出場資格を得べき予選手合において所定の勝点をあげることにより、債務者の審査会によって一定の棋力を有すると認定された者に対し、債務者が、債務者の職員として棋道の研究、後進の誘掖、教導に関する事務を処理することを委託する行為であり、債務者においてその所属棋士に支給している棋士手当、大手合手当、および引退金は、債務者所属の棋士が右の委託に関する事務を委任の趣旨に従って処理することに対する報酬と見るべき性格を有すると解するのが相当である。してみると、債権者がなお債務者所属の棋士たる地位において有すると主張するその他の利益、すなわち免状交付料の割戻金請求権等の権利もしくは利益が、債務者所属の棋士たる地位に対する報酬と解されるかどうかを判断するまでもなく、債務者とその所属の棋士との間には、債務者がその所属の棋士に任命することによって発生した有償の委任に準ずる関係が存在しているものと解すべきことは明らかである。
(三)、なお、債権者は、棋道の研究、後進の誘掖、教導に関する事務のみならず、債務者の役員たる評議員として債務者の運営に携わる事務も、債務者所属の棋士が債務者より委託を受ける事務に含まれると主張するけれども、さきに認定した事実によれば、債務者の役員たる評議員の地位は、債務者がその所属の棋士に対して、更に役員として債務者の運営に携わることを委託することによって生じたもので、債務者所属の棋士とはその法律関係を異にする地位であると解するのが相当であるから、債権者の右の主張は採用できない。
(四)、債務者は、債務者所属の棋士中には、正棋士、準棋士および地方棋士の資格の別があるところから、債務者所属の棋士というのみでは債権者、債務者間の法律関係は特定され得ないと主張し、≪証拠省略≫によると、債務者が日常正棋士、準棋士、地方棋士という呼称を用い、債務者所属の棋士はそれらを総称する名称となっていることが認められるけれども、前掲各証拠(後述措信しない部分を除く。)によると、いわゆる準棋士とは、債務者所属の棋士の養成部在籍者すなわち院生であったものが、満一八才にいたるまで大手合出場資格を得るべき予選手合において所定の勝点をあげることができなかったために院生の資格を失うにいたったのち、なお予選手合を経て大手合出場資格を得るために棋道の研究中である場合(研修棋士という。)と、同様にして大手合出場資格を得られないまま普及事業に専念するにいたった場合(普及棋士という。)を称するものであり、地方棋士とは、大手合出場資格を持たずに債務者の事業を賛助し、囲碁の普及活動に従事するそのほかの棋家を称するものであって、いずれも、債務者から棋士手当を支給されておらず、例外を除いて債務者の評議員の資格も与えられていない棋家の呼称であるに反して、正棋士とは、大手合出場資格を有し、棋士手当その他の手当を支給され、当然に債務者の評議員たる資格を有する者の呼称であることが認められ、前掲各証拠中右認定に反する部分は採用できない。
右の事実をさきに判示した債務者所属の棋士たる地位と考えあわせると、債務者のいわゆる正棋士がここにいう債務者所属の棋士、すなわち債務者の寄付行為に定める債務者所属の棋士と解されるべきことは明らかであるから、債務者所属の棋士と法律上区別され得る正棋士なる別個の地位があることをいう債務者の主張は理由がないといわざるを得ない。
(五)、してみると、債権者が、昭和一〇年四月に債務者所属の棋士に任命されたことが前示のとおり当事者間に争いがないところから、債権者と債務者間には、債権者が債務者所属の棋士であることにもとづき前示のような有償の準委任関係が存続していたものと解すべきことは明らかである。
(六)、なお債権者は、昭和二九年一〇月二八日、債務者から六段位を付与されている(この事実は当事者間に争いがない)ことをも、本件仮処分によって保全することを求める法律上の地位に属すると主張しているけれども、債務者所属の棋士の段位は、当該棋士が大手合において債務者が定める勝率をおさめたことを証するいわば囲碁の力量に対する表現に過ぎないことはさきに判示したところで明らかであるから、債権者が六段位を付与せられたからといって、それが債権者、債務者間の法律関係の内容を構成するとは解し難く、債権者の本件仮処分申請はこの限度において理由がないものといわなければならない。
三、つぎに、債務者が、昭和四〇年一二月三日の評議員会の議決を経て、債権者が、債務者の評議員会の決議ならびに理事会の指令に従わず、債務者の統制を乱したこと、および日本棋院中央会館を債務者とは別個の団体と主張して債務者を裁判に訴えたこと、を理由として債権者を債務者所属の棋士から除名し、その旨を記載した同月四日付の書留内容証明郵便がその頃債権者に到達していることは当事者間に争いがないが、債権者において右の除名の効力を争うので、以下この点について検討する。
(一)、債権者はまず、債務者のした債権者の除名が債務者の寄付行為に違反すると主張する。
債務者の寄付行為中に、債務者所属の棋士を任命するための要件がさきに判示したように規定されているのに反して、除名に関する規定がないことは当事者間に争いがない。しかしながら、債権者と債務者間の法律関係がさきに判示したような準委任関係と解されるところによれば、たとえ、寄付行為中に除名に関する規定がなくとも、右の準委任関係の当事者たる地位にもとづいて、債務者が解除権を有することは当然であるから、寄付行為を改正しない限り債務者所属の棋士を除名し得ないものとする債権者の主張は理由がないといわざるを得ない。
(二)、債権者は、債権者のした債権者の除名が正当な手続によって開催された評議員会の議決を経ていないと主張する。
債務者が除名理由に掲げる昭和四〇年一二月三日開催の評議員会が、東京在住の評議員のみを招集して開催されたことは当事者間に争いがないが、≪証拠省略≫によると、債務者は、東京在住の評議員以外に債務者の評議員を擁している債務者の中部総本部および関西総本部においてもそれぞれその配属の評議員を招集し、中部総本部においては昭和四〇年一二月三日、関西総本部においては同月六日、評議員会を開催して、債権者を除名する議案を可決していることが認められ、この認定を左右するに足りる疎明はない。
ところで≪証拠省略≫によると、債務者は、昭和二三年四月一日さきに判示したように寄付行為を改正して、債務者所属の棋士に評議員の資格を付与するにいたったのであるが、その後において、大阪所在の債務者の関西別院を関西総本部と改称し、昭和三〇年頃名古屋所在の東海支部を中部総本部と改称して、それぞれ当該地方の囲碁普及事業の中心としたために、債務者所属の棋士もその一部が各総本部に配属されるようになり(これに対して東京在住の評議員は東京本院所属と呼ばれている。)、爾来、債務者は、その評議員会を東京本院、関西総本部および中部総本部の別に、それぞれ配属にかかる評議員を招集して開催することとし、債務者の運営に関する重要な事項についてはそれぞれの評議員会による議決を求め、地域的な運営に関する事項については当該地域を担当する評議員会の議決によってこれを決することが慣行となっていたことが認められ、この認定を左右するに足りる疎明はない。
してみると、債権者の除名に関する議案は、債務者の運営に関する重要な事項にあたるとして、前示のように各評議員会に提案され、その議決を経ていることが認められる以上、債務者が従来慣行として遵守してきた手続は一応正当に履践されたものというべきであり、このような慣行が債権者の主張するように、ただちに無効であるとは解し難い。
したがって、債務者の評議員会が、債務者の最高意思決定機関であるか、理事会の諮問機関に過ぎないかの争点にたちいるまでもなく、手続違反を理由として債務者のした債権者の除名が無効であるという債権者の主張はすでに理由がないものというべきである。
(三)、そこで次に、債権者には債務者から除名されるに価する事由が存在しないとする債権者の主張について検討することにする。
(イ)、それにさきだって、債務者がいかなる場合においてその所属の棋士の除名、すなわち前示準委任関係の解除をなし得るかについて考えてみると、債務者とその所属の棋士間に存在する準委任関係は、さきに明らかにした限りにおいてもすでに有償のものと認められるほか、≪証拠省略≫によると、債務者所属の棋士は、債務者が新聞社との契約によって企画する各種新聞棋戦に出場することによって対局料を得ることができ、また一般の囲碁愛好者に囲碁の指導を行うことによって指導料を得るとともに、自らの指導にかかる囲碁愛好者に債務者が発行している免状を交付することを債務者に申請して、債権者が主張する内容の交付料の割戻金を受けることができる(以上の事実は当事者間に争いがない。)など、直接、間接に債務者所属の棋士たる地位にもとづいて得られる諸収入によってその経済生活を支えていることが認められる(この認定に反する証拠はない。)とともに、さきに認定したとおり、債務者は、当初からその所属の棋士の生活の安定を保持することをその事業の重要な目的としてきた設立および運営の沿革を有するものであり、またさきに当事者間に争いのない事実として判示したように債務者の寄付行為中には債務者所属の棋士を除名し得る旨の規定が存しないものであることなどの諸点を総合して考えると、債務者とその所属の棋士間の前示のような準委任関係は、もっぱら、右準委任関係における受任者たる債務者所属の棋士の利益をはかる目的で成立しているものと解するのが相当であるから、債務者において何ら特別の理由なく任意にこれを解約することはできないものというべきであり、債務者において一方的に右の関係を解除するためには、債務者所属の棋士に、債務者から委託を受けた棋道の研究、後進の誘掖、教導に関する事務の処理について、契約の存続を期し難いと認めるに足る程度の背信行為が存することを必要とするものというべきである。
(ロ)、ところで、本件において、債務者が債権者を除名する理由として掲げる事実のうち、債権者において従わないとされる債務者の評議員会の議決が、昭和四〇年三月一九日開催にかかる債務者の評議員会でなされた日本棋院中央会館(債務者と別個独立の団体によって経営されているものであるかどうかはしばらく措く。)の運営に関する「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)を廃止し、これに代る「日本棋院中央会館規定」(乙第八号証)を制定し、同年四月一日から右の規定を実施するものとした議決を指すものであることは当事者間に争いがなく、債権者において従わないとされる債務者の理事会の指令が、右の評議員会の議決にもとづいて、債務者の理事会が債権者に対して同年三月三一日にした、日本棋院中央会館の運営に関する事務をすみやかに債務者の理事会に引き継ぐことを命ずる旨の指示をさすものであること、また債権者において日本棋院中央会館を債務者とは別個の団体として裁判に訴えたということが、債権者において、右の債務者の理事会の指示を受けたのち、同年四月一日東京地方裁判所に対して仮処分を申請し(同年(ヨ)第二八四四号事件)、同裁判所より、同月八日、債務者に対し、債権者が日本棋院中央会館運営委員会の指揮のもとに同会館の運営を行うことを妨害することを禁ずる旨の仮処分決定を得たことおよび右仮処分申請ならびに右仮処分決定に対する債務者の異議申立にかかる仮処分異議訴訟において、債権者が、日本棋院中央会館を債務者と人格を異にする団体もしくは人格を異にする団体である日本棋院中央会館運営委員会の経営にかかるものであると主張している債権者の抗争の態度を指すものであることは、債務者において認めるところである。
(ハ)、そこで、すすんで、債権者と債務者間に右のような紛争が発生したいきさつに遡って、前示のような事実が債権者を債務者所属の棋士から除名し得る事由に該当するかどうかを調べてみる。
≪証拠省略≫によると次のような事実が認められる。すなわち、日本棋院中央会館は、囲碁が国内でも、国外でも普及するにいたったことに伴ない、東京都内の中心部に囲碁の対局場およびサロンを設置し一層の囲碁の普及ならびに発達を期すべき債務者の計画が発端となって、東京都千代田区丸ノ内一丁目一番地の国際観光会館の五館に開設された囲碁の対局場およびサロンの名称である(以上の事実は当事者間に争いがない。)のみならず、その経理を債務者と別扱いいわゆる独立採算制にし、債務者が同会館の開設時に支出した金四〇〇万円および毎月補助金名下に支出する金一八万円のほか、法人会員、団体会員、個人会員、臨時会員および賛助会員等の別による会員の納入する会費を主な収入源として、専従する職員約六〇名により、前述の囲碁の対局場およびサロンの経営ならびに債務者所属の棋士を招聘して行う囲碁の指導、囲碁講座の開設および英文囲碁雑誌の出版等の囲碁普及事業を行い、その事業規模が昭和三八年度の収入および支出額において金五四、〇四二、八五一円、昭和三九年三月三一日現在の正味資産において金三四、七三八、三七三円に達していた一個の活力ある有機体としての事業の名称であるところ、債務者は、右事業の運営に関し、その理事会において昭和三〇年一二月一三日より実施にかかる「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)を制定し、債務者の理事長をもって日本棋院中央会館の館長にあて、運営一切の責任者とするとともに、同会館の運営に関して協議しかつ協力と援助を与えるために、債務者の総裁をもってあてる委員長と債務者の理事会の議決によって委嘱される委員とによって構成される日本棋院中央会館運営委員会を置き、同会館の運営に参与させるために、債務者の理事会がその決議により債務者所属の棋士の中から実行委員を委嘱して、同会館の運営にあたらせることとしていた。しかして、債務者は右の規定の実施に伴ない、申請外宮下秀洋、同村島誼紀および債権者を実行委員に委嘱したのであるが、一年足らずで申請外宮下秀洋、同村島誼紀がその職を辞した(この事実は当事者間に争いがない。)ほか、当時同会館の館長であった申請外三好英之も本来の業務に忙殺されて事実上館長の職責をはたすことが困難であったという事情もあって、その後は債権者が単独で同会館の運営の衝にあたる結果となり、この状態が、前述のように昭和四〇年三月三一日債務者の理事会が債権者に対して同会館の運営に関する事務の引継を求めるにいたるまで、九年余も継続されていた。しかも、この間、債権者は昇段大手合の出場も休止して同会館の運営に専念し、同会館の職員を指揮して法人会員等の獲得に努め、昭和三〇年度において収入額金一五、二〇六、三五三円、支出額金一四、六一五、四五〇円の事業規模に過ぎなかった同会館を前述の昭和三八年度の規模に発展させ、囲碁の普及活動に従事するとともに、同会館の事業に協力する債務者所属の棋士に指導料名下の金員を支給することによって債務者所属の棋士の生活の安定にも寄与していたところから、債務者においても当初はその労に酬いるため、その理事会において、債権者に対し大手合出場者と同額の手当を支給することとしたほか、昭和三二年四月から月額金七、〇〇〇円を、昭和三四年九月以降は月額金五〇、〇〇〇円を日本棋院中央会館の収入のうちから支給を受けることを諒承していたのである。
ところが、債務者の理事会は、その後債務者所属の棋士のうちから債権者の振舞が独断専行にわたるとする批難が起ったことと、昭和三九年秋頃、債権者が債務者の関係機関の諒解を得ることなく第二回インターナショナル・ゴ・トーナメント大会を開催し、日本棋院中央会館運営委員会委員長申請外津島寿一をさしおいて恣に申請外福田赳夫を右の委員長名義とした大会の案内状を各方面に配布した専横な行為があったとの理由にもとづいて、債権者を同会館の運営の業務から排除すべく、その方法として、前記「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)を廃止して同会館の実行委員たる地位に関する規定上の根拠を失わせると同時に、右規定に代えるに、同会館の運営、経理その他一切の事務を債務者の理事会が管理することとするが、運営一切についての責任は債務者の理事長をもってあてる館長が負うこととし、なお別に管理運営の事務を担当させるべく債務者の理事長を委員長とし債務者の理事会の指名する理事および学識経験者をもって委員とする日本棋院中央会館運営担当委員会を債務者の理事会に置いて同会館の運営を行う旨を定めた前掲「日本棋院中央会館規定」(乙第八号証)を制定し、右規定にもとづいて同会館の運営に従事すべき各委員の人選からは債権者を除外することにして、右の規定の改正とともに、債権者において債務者の理事会に同会館の運営に関する事務を引継がざるを余儀なくさせようとした。そこで債権者は、債務者の右のような意図が不当なものであるとして前掲の昭和四〇年三月一九日開催の評議員会において、右の「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)の改正に反対したが、改正に賛成する者五〇名、反対する者三二名、白紙を投じた者二名で前示のとおり「日本棋院中央会館規定」(乙第八号証)の制定が議決されてしまったため、債務者が右規定にしたがって同会館の副館長に申請外加藤和根を、同会館運営担当委員に債務者の棋士理事全員、申請外藤沢朋斉および同瀬越憲作を委嘱したうえ、同月三一日、右規定を同年四月一日から実施することに伴なう事務の引継を債権者に要求したことに従わず、さきに判示したように東京地方裁判所に対し仮処分申請をするにいたったのである。
おおよそ以上の事実を認めることができるのであり、前掲各証拠中右認定に反する部分は採用しない。
叙上認定にかかる事実を総合すると、債務者において債権者を債務者所属の棋士から除名するにいたった端緒が、債権者の日本棋院中央会館の実行委員たる地位の得喪をめぐる債権者、債務者間の紛争に求められることは明らかであるが、右の認定にかかる事実と、前示の債務者所属の棋士の地位とをあわせ考えると、債権者の日本棋院中央会館の実行委員たる地位は、債権者が、債務者所属の棋士として債務者から委託を受けている棋道の研究、後進の誘掖、教導に関する事務とはその性質を異にする囲碁の対局場およびサロンの経営ならびにこれに附随する開碁普及事業に関する事務の処理を債務者から委託を受けると同時に債権者においてもその事務の処理に関し一定の経済的利益を得ていたことによる、債務者所属の棋士たる地位とは別個の、債権者の利益をはかることをも目的とした委任に準ずる法律関係上の地位と解するのが相当である。してみると、前示のような日本棋院中央会館の実行委員たる地位に関する紛争が、右の地位と法律関係を異にする、債務者所属の棋士たることにもとづく債権者、債務者間の法律関係を解除し得る事由となり得るためには、単に債権者が債務者の評議員会の多数決に従わないというだけでは足りず、債務者において債権者に前掲実行委員を委嘱したことによって発生した法律関係を一方的に解除し得る要件を具備しているのにもかかわらず、なお債権者において故なく抗争を続けているなど、債権者、債務者間の債務者所属の棋士たることにもとづく準委任関係上の信頼関係すら破壊されるにいたったと認められるに足る特別の事由が存在することを要するものといわなければならない。ところが、債務者が前述のように評議員会の議決により「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)を廃止するなどの手段を用いて債権者を中央会館の運営から排除することを意図した原因として掲げる事由のうち、債権者に同会館の運営に関し独断専行ないし公私混淆にわたる行為があったとする点については本件にあらわれた全疎明をもってしてもこれを具体的に認めることができず、また第二回インターナショナル・ゴ・トーナメント大会の開催をめぐって債務者主張のような債権者の行為があったことにより、債務者がどのような損害を受けたかの点についてもこれを明白に認め得る疎明が存しないのである。してみると、これらの事由をもとにして、債務者が、前示のように債権者が日本棋院中央会館の実行委員たることによって債権者、債務者間に存続している委任類似の関係を一方的に解除し得るものとすることは疑なきを得ないというべきであるから、債権者が前示のような債務者の理事会からの事務引継の要求を拒絶して東京地方裁判所に対し仮処分を申請し、前述の紛争に関する裁判上の解決を得るべき方法をとったとしても、これをもって債権者が故なく債務者と抗争しているに過ぎないものとはいい難く、ほかに債権者の債務者に対する抗争が、債務者所属の棋士たる法律関係を継続し難くする程度の信頼関係の破壊をもたらしていると認めるに足る疎明は存しない。
(四)、ところで、債務者は、債権者が前述の仮処分申請および右の仮処分に対する異議訴訟において、日本棋院中央会館が債務者とは別個の団体である日本棋院中央会館運営委員会によって運営されているものと主張していることは、真実に反する主張であるから、債権者を除名する理由となると主張する。
しかしながら、右のような訴訟上の主張は、当該訴訟において真実に反するものと判断されるにいたった場合においても、債権者において真実なりと信じて主張をし、またそのように信じたことに相当の理由がある場合においては、これをもって訴訟上の権利を濫用したとして、債権者の不利益に帰せしめることが許されないことは明らかである。
これを本件についてみるに、≪証拠省略≫によると、日本棋院中央会館の開設に関しては、昭和二九年春頃から、債務者の理事会や評議員会または債務者所属の棋士の親睦団体である棋士会においてその経営方針が論議されたのであるけれども、債務者所属の棋士の多数の者が、同会館の経営には多額の費用を要するにかかわらず債務者所属の棋士は経営の事務に不馴れであるところから、もし債務者においてその経営を行う場合は失敗する可能性が強く、ひいて債務者所属の棋士の生活に累を及ぼしかねないとの理由にもとづいて、債務者が直接同会館の運営を行うことに反対したので、債務者は、同会館の経営が仮に失敗したとしてもそれによる負担が債務者に帰属することを防止する目的で(法律的に責任を免れ得るかどうかは問題があるとしても)、債務者の理事会とは別個の機構である日本棋院中央会館設立運営委員会なるものを結成して、その計算において日本棋院中央会館の設立に関する手続を遂行することとした。そこで債務者は、債務者所属の棋士のほか、政界、財界の有力者の中から委嘱によって右委員会の委員三〇〇余名を選任し、昭和二九年五月三一日、同委員会の初会合を開いて申請外津島寿一を委員長とし、申請外足立正ほか四七名を設立実行委員に選出した。(この事実は当事者間に争いがない。)右委員会は、同年六月一八日第一回の設立実行委員会を開催したのち、設立実行委員が中心となって同会館の開設に必要な資金を金二、七〇〇万円を目標として法人および個人からの寄付および借入れによって調達したうえ、日本棋院中央会館設立運営委員会委員長申請外津島寿一の名により、債務者を保証人として、申請外株式会社国際観光会館から同館の五階九九坪二合(三二七、九三平方メートル)を賃借し、(昭和三〇年一月一六日、同様にして一六坪四合(五四、二一平方メート)ルについて賃貸借契約が締結されていることも含めて、右のような賃貸借契約が締結されたことは当事者間に争いがない。)昭和二九年一一月二三日、日本棋院中央会館の開館披露式を挙行するにいたった。そこで日本棋院中央会館設立運営委員会は、同年一二月三日、その使命を達成したことによって解散し、同日以降同会館の運営にあたるべき機構として日本棋院中央会館運営委員会が設置され、申請外津島寿一が同委員会の委員長に、申請外桑原宗久および債権者が常任運営委員に、申請外岩本薫が同会館館長に選任され、前掲日本棋院中央会館設立運営委員会の計算を承継して同会館の運営を行うようになった。しかしその後一年を経ずして同会館の業績が振わず、しかもその改善策について意見の対立が生じたことが理由となって申請外岩本薫、同桑原宗久が辞職するにいたったため、債務者は、その理事会において前掲「日本棋院中央会館規定」(乙第七号証)を制定し、爾後は、債務者の理事会が主体性をもって、右規定(乙第七号証)により債務者の理事会に対する協力機関に改められた同会館運営委員会と協議のうえ同会館の運営にあたることとしたのである。したがってその後は債務者の理事会が同会館の運営に関する重要な事項および毎年度の予算案について同会館から報告を受けるようになったのであるけれども、同会館が債務者とは経理を別扱いとする従前の方針はそのまま維持されるとともに、同会館における職員の採用、同会館の事業の計画の細部等は債権者を含む同会館の運営の実務を担当する者の裁量に委ねられていたために、さきに三の(三)、(ハ)で判示したように、同会館が債務者とは独立の財源を有して囲碁の普及事業を営なむ有機体としての事業の内容を保持し続けて来たものであり、このような同会館の運営の実際と、前示のように債務者に対して同会館の経営の失敗による財政的負担を帰属せしめない目的で債務者の理事会とは別個の機構をもって同会館の運営にあたることとした同会館設立の沿革にてらし、同会館が、債務者の理事会から独立して同会館運営委員会の指揮のもとに運営されていると解する意見が、債務者所属の棋士および囲碁愛好者の一部を支配していた。
おおよそ以上のような事実を認めることができ、前掲証拠中この認定に反する部分は採用できない。
叙上認定にかかる日本棋院中央会館設立の事情およびその運営の沿革にてらすと、債権者が主張するように、日本棋院中央会館ないし同会館の運営委員会が債務者と別個の人格を有する団体であるとは認め難いけれども、右のような主張をすることが一見して真実に反すると認められるほどに、同会館が債務者の下部機構に過ぎないことがその機構上または運営上明白にされていたものともいい難いものがあるから、債権者が右のような主張をすることをもって、ただちに訴訟上の権利を濫用するものと認めることはできないものというべきである。
(五)、以上を要するに、債務者のした債権者の除名は、債務者において、債権者が債務者所属の棋士たることにより、債権者、債務者間に存在する準委任関係を一方的に解除し得るに足る事由にもとづいてしたものとはいい難いから、その余の判断をまつまでもなく無効なものといわなければならない。
四、してみると、債権者の被保全権利は、債務者所属の棋士たる地位を仮に定めることを求める範囲においてその疎明があり、叙上諸般の事情によれば、本案判決の確定をまっていては債権者が回復し難い損害を蒙ることは明らかで本件仮処分の必要性が存在することも認められる。
五、よって右の限度において債権者の申請を認容し、その余は失当であるから却下することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岡成人 裁判官 羽生雅則 裁判官 守屋克彦)